私は現在40歳ですが、34歳のときに乳がんと診断されました。その当時の詳しいことは、非常に混乱していてぼんやりとしか覚えていないこともあります。でも、同じ病で不安を抱えている方の一助になれば、と思い出して書きたいと思います。やっと術後7年目を無事に迎え、経過をまとめてもよいだろうと思ったのもあります。

右の乳房にしこりを見つけたのは、たしか32歳の頃だったと思います。ふと入浴前にブラジャーをはずしたときに、こりっとしたしこりを見つけました。乳房の内側で、ちょうどワイヤーの先端が当たる部分でした。あれ、ワイヤー飛び出したりしていないけどなあ…と思い、しばらく様子を見ていました。しかし、1ヶ月経ってもしこりは残ったまま。いやな感じでした。これはもしかしたら乳がんではないか。テレビなどでやっている「乳房の内側に小豆が入っている感じ」とよく似ていました。どこで診てもらったらいいのだろう…。ちょうどその2年ほど前にうつ病になり、転職したばかりでした。当時は派遣社員として無理のない仕事に就き、うつ病もだいたい治っていました。電話帳で「乳がん検診」の文字を探し、一度かかったことのある産婦人科で検診をしていることを知り、受診することにしました。それまで乳がん検診は受けたことがありませんでした。

検査をした産婦人科は、はっきり言えばちょっと怪しい感じのところでしたが、あまり危機感を感じていなかったというか、無知だったのでしょう。マンモグラフィというのさえ撮れば全部わかるのだと思っていました。実際、医師が触診をし、マンモグラフィを撮りましたが、先生が言うにはしこりはあるが乳がんではないだろう。大きくなるようだったら、また検査すればいいとのことでした。私はすっかり安心してしまい、しこりのことは「そういうもの」だと思って、だんだん忘れていきました。

34歳の時、うつ病が重くなってしまい、仕事を辞めて実家に帰りました。ほとんど引きこもって精神科に通院するだけの日々でした。ある日、ふとしこりがあったことを思い出し、触ってみたら、まだ確かにありました。親には心配をかけまいと黙っていたのですが、その頃はずいぶん弱っていたようで、母にこんなのがあるんだよね、と言ったところ、すぐに総合病院に行きなさいと言われ、付いてきてもらいました。総合病院の窓口に行って受診の手続きをするとき、はたと何科に行ったらいいのか、わからなくなりました。女性の病気だから婦人科?内科?外科?迷ったあげく、産婦人科に手続きをしたら、ここは違いますよ、乳腺外科というのが先月できましたからと案内されました。その時まで「乳腺外科」という科の存在すら知りませんでした。

よく覚えていないのですが、マンモグラフィを撮り、触診をされたと思います。確か、その場でしこりに針を刺して中身を検査しました。その針を刺しているときに、看護婦さんが「痛くないよ~、すぐにわかるからね~」と言ってくれたのですが、その時の看護婦さんの表情というか、針を刺しているという行為で「あ、これは本当にがんかもしれない」と思いました。それから結果が出るまで1週間ぐらいはあったと思いますが、その間のことはまったく覚えていません。結果を聞いたら、やはり乳がんとのことでした。乳房を摘出する必要はないし、傷口も目立たないことを説明されたのですが、その病院の乳腺外科がまだできたばかりだということが不安でした。というより、がんという結果が受け入れられませんでした。「やはりそうだった」という思いと、「そんなはずはない」という思いがせめぎ合っていた状態でした。よいお医者さんだったなあ、と後から思うのですが、セカンドオピニオンを勧められたので、マンモグラフィの画像と紹介状をもらって帰りました。両親はとてもショックを受けていました。ちょうどその2年ほど前に母が悪性黒色腫で大きな手術を受けていたので、まさか…と思ったろうと思います。その時の母の執刀医が大変良い人だったので、皮膚科の先生でしたが相談しに行くことになりました。もちろん専門ではないのですが、がんということについては何か教えていただけるだろうという思いでした。

皮膚科の先生には母が電話し、予約を取りました。大げさではありましたが、親子3人で訪ねて行きました。その先生からは乳がんは手術後の予後がよいことが多いこと、とにかく諦めずに治療をすればよいのだということを言われました。それだけでなく、乳がんを扱う病院を調べて、メールして下さることになりました。その帰り、3人で何とはなしに「飲んで帰るか」ということになり(お酒の好きな家なのです)、小さな居酒屋でかなり飲みました。なんだか沈鬱な顔をして帰宅するのがいやだったのです。3人でかなりの量を飲み、楽しくバカ話をして、ちょっと気軽になって帰宅しました。なんてお気楽な、と思いますが、暗い顔をしても負担をかけるので、お酒の力を借りたのは私にとっても両親にとっても良かったと思います。

皮膚科の先生からは、間もなくメールが届きました。私の住んでいる地域から近いところから遠いところまで、いろいろな病院を調べてくださいました。大きな病院、専門の病院、再建に力を入れている病院など、10件近くあったと思います。それぞれにコメントをつけて下さり、無知な私にもわかるようになっていました。結局、その中から住んでいる市内にある乳腺外科の専門病院にかかることにしました。そこは手術件数も多く、専門病院として名のあるところということで安心できると思ったのです。

専門病院を訪れた時、わかっているのは乳房を摘出しなくてもいいこと、けれども手術は避けられないということでした。そのK病院に行くと、当然のことですが女性の患者ばかりです。しかも、私がいちばん若いぐらいでした。これはかなり安心できました。正直、総合病院に行くと何の病気かもわからない、さらに病気ではない人もいるのでいやだったのです。ここではほとんどすべてが乳がんの患者さんなのだ、と思うと不思議と勇気が湧いてきました。みんな闘っているんだな…と思って。中待合では、上半身裸にバスタオルを羽織って診察を待ちます。順番がまわってきて、担当の先生(男性)に診てもらいました。触診をし、マンモグラフィの画像を見て、すぐに手術の日程が決まったように思います。手術は乳輪に沿ってメスを入れ、そこから開いてがんとその周りの組織、脂肪を取るということでした。これは前の病院で説明されたのと同じ術法で、傷口が目立たない方法とのことでした。そして、リンパ節に転移がないかどうかを脇を切って調べるとのこと(センチネルリンパ)。先生はとても気さくで明るい方で、大丈夫だよ、何も心配はないと力強く言って下さいました。同じ術法で手術した方の写真も見せてもらいました。かなり年配の方のようでしたが、たしかに傷はそんなに目立たなくて、ちょっと乳房が小さくなるのだなと思いました。

入院、手術まで数週間あったと思います。だんだんがんなのだ…という実感が湧いてきました。34歳…まだ結婚もしていませんでしたし、うつ病の引きこもりでした。ある日、祖母の家に遊びに行くと、私よりかなり若い従弟のお嫁さんも遊びに来ていました。かわいい赤ちゃんを抱き、幸せいっぱいでした。その時の気持ちをなんと表せばよいでしょうか。ああ、私はもう子どもを産むこともできないし、女性の体の一部を失うのだとひしひしと見せつけられた思いでした。手術をすれば治る、まだまだこれからと歯を食いしばっていたのがガラガラと崩れたのです。その晩、私は手持ちの睡眠導入剤すべてを焼酎で流し込み、包丁で手首を深く切りました。フラフラしながら風呂場に行き、残り湯に腕を沈めてそのまま眠りこみました。夜中に風呂場の電気が付いていることに気付いた父が見つけて救急車を呼び、救急病院で胃洗浄を受けたそうです。私はまったく覚えていません。処置を受けているときに「どうして死なせてくれなかった、どうせ死ぬのに!生きてても意味無いのに!」と叫んでいたらしいです。私が覚えているのはガンガン頭が痛くて、目が覚めた時でした。ああ、失敗したか…と思うと同時に恥ずかしくなっていました。他県に住んでいる兄が駆けつけてくれ、付き添ってくれていました。兄は何も言わず、家まで連れて帰ってくれました。救急車で運び込まれたので靴がなく、売店で紙のスリッパを買ってはいて帰ったことをよく覚えています。すぐに当時かかっていた精神科に行きましたが、普通は精神病院にしばらく入院するのだが、がんの手術があるのだからそこでゆっくり休みなさいとのことでした。母は家中の刃物をどこかにしまい、薬も手渡しで必要量をもらうことになりました。

To be continued…