私は40歳の時、12年ぶりに受けた子宮頸癌検診でクラス5の状態を告げられました。
すぐに大きい病院を紹介するので治療に進むように・・と。
その後いろいろな検査の結果、準広範子宮摘出手術(子宮全摘と周りの筋肉などの組織の一部を切り取る手術)を行い、結果、浸潤が1ミリだったため、奇跡的に転移はないと判断され抗がん剤治療をせず、経過観察中で、もうすぐ2年が経過します。

子宮頸癌が見つかった時、ひとり息子が小学校卒業間近の2月。
小学校の卒業式も中学校の入学式も出席できないかもしれないし、どのくらいの入院をしなければならないのか予想もできなかったので、悩んだ挙句、息子に話しました。
癌がみつかったこと、しばらく家を留守にすること、その間はパパと二人で協力し合って過ごしほしいことを話しました。
そして入院するまでの間に、お風呂掃除、掃除機、洗濯物畳みなど息子ができそうなことを教え、学校から帰ってパパが帰るまでの間にお手伝いしてねと伝えました。

その時は状況をよく理解できていなかったように思われた息子でしたが、その後中学1年生になった息子が宿題で書いた作文があります

「母の入院」

「3月か4月の頃だった。母が突然入院することになった。

最初は話が唐突すぎて何がなんだかわからなかった。病名は子宮けい癌とのことだった。

テレビでいつも人ごとのように思っていた癌に身近にいる人がなったのだ。頭で理解しても到底実感することはなかった。
さらに進行状況は最悪でありテレビでよくやっている放射線レーザーで治せるような段階ではなかった。

月日は過ぎ母は入院した。今回の入院期間は3日であった。たった3日だったがほとんど自分自身はあまり日常と変わらなかったものの、父はいつもやっていない洗濯などの家事をしてとても大変だっただろう。

その後無事に手術を終え帰って来た。

僕たち家族はその後再び普通通りに少しずつ戻っていった。

そして3カ月経とうとしていたころ、再び母は入院日が決まり入院することになった。それは最初から決まっていた。当たり前である。
進行状況が最悪なのにたった3日の入院で済むはずがあるわけがないのだ。
最初の手術はあくまで進行状況をみるためだった。今回は正式に子宮をとるらしい。
しかし最初の手術が終わって3カ月で予想以上に癌は進んでいた。3カ月という月日はあまりにも長かったのである。さらに入院の期間は1カ月であった。
父と自分にとってその期間はあまりにも長かった。今回は前のようにはいかず、今回は僕も掃除や風呂掃除などの家事をやらなければならなかった。

そんな中で嬉しいことがあった。今のクラスは違うが小学校の頃よく遊んでいた友達の家から夕飯をもらったりした。他にもいとこの家で入院中に僕を預かってくれるそうだ。他にも別の友達からも同じようなことがいくつかあった。とてもありがたかった。
そんな中母の誕生日がやってきた。家族でケーキを食べた。おいしかった。どうかこれが母の最期の誕生日になりませんように。僕はそう願った。

この時すでに入院まであと7日だった。そして1日1日がとても早く感じるようになった。そして1日1日が過ぎると緊迫感はどんどん増していった。

そして母と朝行ってきますと言ったきり家に帰ってきても母はいなかった。
そう入院したのだ。その後父と食事をとり、宿題をしたりしたがいつも僕を怒鳴る母の声がないため、なぜかその場はガランとしていた。

「母はいまどうしているだろうか」時にそう思いふっと心配になったりした。
手術は明日である。
癌にならなかったら、と思ったりもするが、父と二人になり母がやっていたことがいかに大変か身にしみて感じた。今自分達二人で分けてやっているものの母はこれを一人でやりのけるのだ。そんな時父がふっと言葉をこぼした
「愛情のかたまりぞ」
確かに愛情がなかったらこんなことはできないだろう。母に感謝した。そして今まであまり手伝ったりしなかった自分をくいた。これからはちゃんと手伝ったりして母に苦労をかけさせないでおこう。そう思った。

癌は僕たちにとって不幸であった。しかし母が癌になって母の大切さがよくわかった。
これは僕たちにとって必要な出来事だったのかもしれない。僕が忘れかけていた母への感謝を・・・。
手術は明日である。無事手術が成功しますように。そして無事元気で帰ってきてまた前のような日常の生活に戻れますように」

現在中3になった息子は、少し反抗期だけど風呂掃除、掃除機、洗濯物たたみ等頼んだらお手伝いしてくれます
私の病気を通して息子なりに何かを学んだようです。